葛飾北斎が88歳で描いた雪中虎図の気迫に胸を射抜かれる

「雪中虎図」圧巻。正直なところ美術館でここまで衝撃を受けたことはありません。 やはり、ナマはちがう。あべのハルカス「北斎」展。画狂老人卍(晩年の雅号)、なんてパンクでポンチな生涯でしょうか。 知れば知るほど凄まじいく、エキセントリックな生き様にドギモ抜かれます。


富士を超えて

HayaraseTaro(2017,11)

大英博物館 国際共同プロジェクト
北斎 -富士を超えて-

大阪
あべのハルカス美術館

これ、
ほんとうに行ってよかったです。
2017年11月18日、
最終日の前日というきわどいタイミングでしたが、
よもや美術館でここまで衝撃を受けるとは予想だにしませんでした。
泣いてしまいそうになるくらい、
万感胸に迫るものがありました。
葛飾北斎って、
小学校のころから名前も作品も知ってましたが。
富嶽三十六景のうち、
「保土ケ谷(ほどがや)」とか「神奈川」とか、
「不二見原(ふじみがはら)」「石斑澤(かじかざわ)」‥‥、
どれがどれだか区別できました。
美術が得意だったから‥‥
ではありません。
切手を集めていたからですね。
子ども心にも、
なんやしらんけどカッコええなぁ~っていう憧れがありました。
しかし、しかし、しかし、
そんなんで知ってたつもりの北斎は、
ほんのほんのわずかの切れっ端。
やはり原寸大の現物をに触れることがどれだけ大事か、
生き様を感じることがどれだけ大事か、
これほどまざまざと思い知らされたことはありません。
知れば知るほど凄まじい、
エキセントリックな生涯。
いやぁ~葛飾北斎、
誰かと語りあいたい気分になりました。

70歳からのパワーに圧倒される

己六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より 数々画図を顕すといへども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし 七十三才にして 稍禽獣虫魚の骨格 草木の出生を悟し得たり 故に八十歳にしては益々進み 九十歳にして猶其奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならん歟 百有十歳にしては 一点一格にして生るがごとくならん 願くは長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまうべし。画狂老人卍述

これを書いたとき、
北斎75歳(数え)。
北斎為一から改め、
画狂老人卍となったころです。
が、画狂(がきょう)‥‥!?
(まんじ)‥‥!?
とは、
なんとパンクでポンチな!!
上の文章、
何が書いてあるかさっぱりわからないと思いますので、
わたしなりに現代語訳をしてみますと──

わたしは6つのときから物の形を写生する癖があり、
50歳のころからは数々の画図を本格的に描いてきましたが、
70歳までに描いたものは実に取るに足りないものばかりでした。
73歳でようやく鳥獣虫魚の骨格や、
草木の出生を悟ることができるようになりました。
だから80歳になればますます向上し、
90歳になればさらにその奥義を極め、
100歳でまさに神妙の域を超えるのではないでしょうか。
百何十歳ともなれば一点一格が生きているかのようになるでしょう。
長寿の神さま、どうかお願いです。
わたしの言葉がウソではないことを見ていてください。

──てな感じ。
あとで時系列に整理しますが、
北斎が「葛飾北斎」を名乗ったのは40代の後半から、
その名を世界的に知らしめた「北斎漫画」は50歳を超えてから、
「冨嶽三十六景」は70歳を超えてから。
北斎の生きた1800年代前半は、
平均寿命が40歳にすら達してなかったかっていう時代ですから、
ふつうの生命力なら日の目を見ることなく終わっていたわけです。
遅咲きなんてもんじゃないんですが、
年老いていく中で何かをきっかけに開眼し、
そこからぐんぐん悟りが拓けていったんでしょうか。
>ワシャまだまだやりまっせ、神さま!
>そやから
>ちゃーんと見といておくれやっしゃー!

くらいの
心意気なわけです。
尻上がりの遅咲きですから、
勢いが止まらない感じですね。
あべのハルカス「北斎」展は、
晩年の30年、
つまり60歳以降の北斎にフォーカスを当てていますが、
まさにそこが人生本番だったとわかります。
100歳を超えて、さらに何十年も長く生きて、
とにかく道を極めたいんだという情念がいかに凄まじいか。
気持ちだけ先走って行動が伴わないってことが、
誰にでも経験があると思いますけど、
この人はちがったんですなぁ。
描いて描いて描きまくる、
ノンストップのフルスロットルで描きまくるっていう晩年。
目が覚めたらまず描く。
83歳のときには獅子を描くのが日課になっていて、
描いたらポイポイ捨ててたので、
いま残っているのは娘のお栄が拾ったものが残っているものです。
なんたって発表した作品の数は、
3万点を超えるっていうんですから。
ふとんをかぶったまま描き続けるっていうスタイルで、
描いてると描いてるのあいだに衣食住があるような‥‥。
版画も肉筆画もいろいろ描くし、
漫画でも春画でもなんでも描く。
自分が描くだけじゃなにし「描き方」を描いて、
弟子だけじゃなく一般庶民にも描く楽しみを味わわせようとした。
描くこと以外は何事にも無頓着で、
お金もなく貧乏だったし、
部屋は散らかり放題、
ゴミがたまったら片づけるのがめんどくさいから引っ越しを‥‥なんて、
もうわけがわかりませんね。

いろいろありすぎな生涯を整理してみる

葛飾北斎が生まれたのは江戸時代後期、
1760年10月31日。
なんせそこから90年という長い生涯、
ずーっと精力的に描きぱなしの動きっぱなしだったってことで、
作品数も半端ないですが、
エピソードもむちゃくちゃいっぱいあります。
引っ越しの回数が93回、
改号(画家としての名前を変えること)30回っていうのを聞いただけで、
有為転変を地で行く生き方だったことがわかります。
(主たる号は、
春朗、宗理、北斎、戴斗、為一、卍の5つ。)
荒唐無稽ともいえる北斎の生涯を整理するにあたっては、
すみだ北斎美術館さんがサイトに掲載している時代区分
──生涯年表を7つの時代に分ける──
を、
参考にさせていただきました。

出生~18歳:絵師以前

本所割下水付近で生まれる(1760)。姓は川村氏。
幼名は時太郎(ときたろう)、のちに鉄蔵(てつぞう)。通称は中島八右衛門。
母は吉良上野介の孫娘だったという説もある。
6歳から絵を描くことに興味を覚える。
12歳のころには貸本屋で丁稚、14歳のころ木版彫刻師の徒弟となるが、
やはり絵に対する関心が強く、
浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)への弟子入りを決意。

19~35歳:習作の時代

勝川春章の門下となり(1778)、勝川春朗(かつかわしゅんろう)の雅号で浮世絵の世界へ。
役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビュー(1779)。
狩野派や唐絵、西洋画など幅広い画法を学び、名所絵、役者絵、武者絵、
角力(すもう)絵、おもちゃ絵を多く手がけた。
黄表紙の挿絵も描いた。
しかしいま残っている肉筆画は少なく、鍾軌図(しょうきず)や婦女風俗図のみ。

35~45歳:宗理様式の展開

勝川派を破門されて離脱(1794)し、
新しく北斎宗理(ほくさいそうり)の雅号を用いる(1795年)。
宗理は俵屋宗達らによって開かれた琳派の頭領が使用した雅号。
それまでの琳派とも異なる独自の宗理様式を完成させ、狂歌の世界と深く関わり、
たくさんの摺物や狂歌絵本の挿絵を描いた。
琳派からも独立(1798年)し、どの流派にも属さないことを宣言。
宗理の号を門人に譲り、北斎、可侯(かこう)、辰政(ときまさ)を名乗る。

45~52歳:葛飾北斎期──読本挿絵への傾注

文化年間(1804~)は読本挿絵を精力的に制作した。
葛飾北斎(1805)や、戴斗(たいと/1810)の雅号はこの時期に登場。
読本挿絵には墨色のみでわずかに薄墨が使われることがあるが、
墨の濃淡を利用した奥行のある空間表現し、
奇抜な構図などで読本挿絵の芸術性を飛躍的に高めた。
陰影表現が特徴的な洋風風景版画も制作。肉筆画も多く残す。

53~70歳:為一期──絵手本の時代

門人が増え、北斎の絵を学ぶ人が全国にいたため、絵手本の制作に情熱を注ぐ。
「ホクサイ・スケッチ」の名で世界的に有名な「北斎漫画」の制作は55歳(初版1814)。
名古屋、西本願寺掛所で120畳の大達磨を描いたのは58歳(1817)。
絵手本以外では、文政年間(1818~1830)に錦絵の鳥瞰図があり、
「為一」(いいつ)の号を使い始めたころ(1820)は摺物の制作が増えた。
シーボルト事件(1828)が発覚したときは69歳。

71~74歳:錦絵の時代

代表作となる名所浮世絵揃物「冨嶽三十六景」刊行(1831~1835ごろ)。
当時流行していた「ベロ藍」(プルシャンブルー)を用いて摺られた。
それまで美人画や役者絵が中心だった浮世絵の世界に、
「風景画」という新たなジャンルを切り拓く。
このころ風景画や花鳥画など、錦絵の名作が多数生み出された。
※錦絵とは、多色摺りの浮世絵木版画を指し、浮世絵の手法のひとつである。

75~90歳:晩年期──肉筆画の時代

画狂老人卍の雅号を用い始め(1834)、「富嶽百景」を手がけるも、
人気に陰りが見え、再び借金が増えていった。
(「冨嶽三十六景」刊行からわずか2年後、安藤広重の「東海道五十三次」が空前の大ヒット。
旅行ブームも追い風となり、広重の人気が増していった。)
風景版画を捨て、肉筆画に傾倒し、
題材は風俗画から和漢の故事に則した作品や宗教画等へと変化していった。
79歳で火災にあい、10代から描き溜めてきた写生帳をすべて失う。
自分が養った画法を若い画家に伝えるため、
作画技法や絵の具の調合法を記した絵手本等も刊行した。
83歳で信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ねる。
このとき鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎を厚遇。
後に再び高井郡小布施を訪れ(1844)、亡くなる前年までの4年間滞在。
亡くなったのは1849年5月10日、
それから今日まで170年近くの歳月が流れました。

それにしても雪中虎図が

それにしても「雪中虎図」の残像が、
脳裏にこびりついて離れません。
この肉筆画には右下に、
>嘉永二己酉寅の月 画狂老人卍老人筆 齢九十歳

署名があります。
「嘉永二年寅の月」とは1849年3月で、
数え90歳(満年齢88歳)だった北斎が亡くなる直前‥‥
と、いうこともあり、
今回の展示物の中でも最後に陳列されていました。
目玉のひとつということもあって、
ポスター等にも使われている「雪中虎図」ですが、
現物を原寸で見るとまったくちがっていました。
われながら不思議くらい、
ぐぐぐ、ぐぐーっと、
胸ぐら掴まれて締め上げられるような、
そして、
泣いてしまいそうになるほど、
気迫に圧倒されてしばらく動けませんでした。
虎といえば虎に見えますけど、
マンガちっくな軟体動物みたいな、
グニャグニャした体つきの変てこな生き物が、
空に向かって泳いでるように飛んでいるファンタジッな絵です。
こういうの
躍動感
っていうんですか。
なんなんでしょうか。
哀しくもあり、励まされるようでもあり、
わけがわかりませんが、
問答無用に引きこまれてしまいました。
心が揺さぶられ、
震える。
一枚の絵に、
ここまで衝撃を受けたのはこのときが初めてです。
本やPCの画面であらためて見てみると、
やっぱり印象がちがっているので、
またいつか、
こんどはもっと長い時間をかけて向きあってみたい。
そう思わずにはおられない、
最後の作品でした。